L.サモシの歌唱法と教授法2

更新日:2020年11月8日


茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)56 号(2007)

Libero Canto─ラヨシュ・サモシの歌唱法と教授法

長谷川 敏*

(2006 年 11 月 30 日受理)

Techniques of Lajos Szamosi’s “Libero Canto”  

Singing and it’s Pedagogy 

Satoshi HASEGAWA * 

(Received November 30, 2006) 

ラヨシュ・サモシの教育理論は その実践的な価値に加えて,

多くの人々がこれまで回復不能なまでに失われてしまったと信

じてきたベル・カントの秘密をおそらくは,ついに我々に明ら

かにするものだった。

(マッテオ・グリンスキー「ベル・カントの秘密」より)1)

L’Osservatore Romano,    No.171, 25 Luglio 1948, Roma 

                       はじめに

 一般にイタリアオペラをはじめとするオペラ,声楽曲の歌唱法ではベル・カント唱法が最もそれにふさわしいものと考えられている。そしてその歌唱法へのアプローチは実に様々なものが見受けられるが,声のクオリテイーと音楽性,精神性の表出ということにおいて,その本質は管見の限りでは Libero Canto リベロ・カントがそれに値するものと考えている。 本稿では Libero Canto の創始者であるラヨシュ・サモシの指導法の特色と意義について筆者自身の体験をふまえつつ検討するものである。とくに,近年公表されたエドヴィン・サモシと高弟デボラ・カーミカエルの編纂になる指導法原理(Principle)とその実践法(Practice)の検討がその中心となる。

*茨城大学教育学部音楽研究室(〒310-8512   水戸市文京 2-1-1;Laboratory of Music, College of Education, 

Ibaraki University, Mito 310-8512 Japan)34 

1.ラヨシュ・サモシと Libero Canto

人間が生まれつき持っている能力を生かし,解放することによって自由に,また優美に歌うことができる方法がある。これは歌唱に伴う様々な重圧や障害を取り除いていく,穏やかな反面で厳しい方法である。このプロセスでは歌い手は身体と呼吸において,音楽のイメージに敏感になり,シンプルになり,そして純粋になっていく。そして,表現力豊かな衝動によって,技術的な流暢さが音楽の可能性を拡げられることの有機的な結果として起こるのである。声は透明になっていく。そして,音楽と歌う人の核心を露わにするのである。 

このプロセスは,第二次世界大戦の前にブダペストでラヨシュ・サモシによって最初に開発された。彼は,それを自由なる歌唱への道(La via al libero canto), Libero Cantoリベロ・カントと名付けた。

 ラヨシュ・サモシ Lajos Szamosi(1894~1979)氏はハンガリー生まれでブダペスト,ローマ,ウイーンで活躍した声楽指導者である2)。氏はもともと声楽家(テノール)であったがブダペストで活躍しているうちに,自分が歌唱する際の声の欠陥に気づき,ハンガリーの当時の高名な先生の門をくぐったがそれを誰も治せなかった。それで 1923 年から 30 年の間,ウイーン,ベルリン,ミュンヘン,パリ,に旅立ち各地の名だたる声楽教師の教えを受けた。がサモシの歌は十分に音楽的で美しかったのでそのままキャリアを続けていくように勧められただけであった。そこで彼は自分で問題を解決しようと試みた。当時ミュンヘンに新しく設立された声とスピーチのための研究所についての話を聞いた。ここでは医者と研究者が声の障害を治療する方法を開発していた。発声器官に障害をもつ多くの人々,歌手,俳優,聖職者,教師たちが助けを求めてきていた研究所である。彼はその活動を観察する許可をもらった。そして彼はそこでの研究とその方法が,声楽でよく歌えない機能のケースでも,健康でない機能を改善することに違いないと確信した。これがそれから発展進化していくアプローチへの基本要素となった。

その後彼はハンガリーに帰国して生徒を教え始め,これらの基本をもって徐々に実際の声楽指導に慎重に適用し始めたのである。

 また彼は同時に各地で可能な限り多くの優れた指揮者,例えば ブルーノ・ワルター,ウイルヘルム・フルトヴェングラー,エーリッヒ・クライバー,  ジークフリート・オックス,オットー・クレンペラーなどが指揮するコンサートを聴いた。そして彼はその時代最高の歌手たちの特性と態度(姿勢)を吸収した。少しの例をあげればジークリッド・オネーギン,マリア・イヴォーギュン,フリードリッヒ・ショール,テイト・スキーパ,  アメリータ・ガリクルチなどである。またしばらくの間 彼はリリー・レーマンのところで勉強した。そして彼女から多くのことを学んだ。すべてこれらの経験は彼の音楽的,美的な感受性に深く影響して,彼のスタンダードと理想を定めることに役立っている。

 また彼は自分で演奏しているときに,自分に聞こえてくる内側からの声と他人が聞いている声とでは大変大きな乖離があることに改めて気づき,そのことを何世紀も前にイタリアのマエストロたちが述べていたことを発見する。それは歌唱と音響学の新しい理解であった。そしてますます彼は歌唱法に思いを深くして研究を拡大していった。

彼は隣接する解剖学,生理学,心理学,美学についても,歌唱と音楽の自然さに更なる力をもつこうしたジャンルのすべてを探求していった。その中にはフロイトの新しい精神分析のアプローチ35も含まれる。それは主題に精神的な幅を持たせて彼の洞察を大いに深めることになった。

 精神的なものと肉体的なものとは実際には切り離すことが出来ないものである。歌うことが最適に自由であるために,また見事で表情豊かな歌唱のためには,その両翼はそれぞれが分解し研究されなければならなかったのである。 

 サモシは歌唱する際の最重要のことがらである呼吸において,1920 年代のドイツで最も影響力があったといわれるパウル・ブルンス Paul Bruns の「最少の息」理論を採用した。これについては後述するが,一般に行われる肺一杯に吸い込むやり方とは全く対照的というべき方法である。

 この間に彼は洗練されたピアニストで大歌手であったテレサ・ヴァジャ・ムルモヴァ(彼女は 90歳を越えた現在でもプラハで健在,非常に尊敬されている教師)などによって大いに援助された。彼らは私邸にて演奏会を組織して,当時ようやくその研究が始まったばかりのその宝のような,初期の音楽曲に光を当てた。多くのキャリアを積んだ音楽家達がこれ以降サモシ邸のコンサートに出演したり,聴いたりするために出入りした。彼らの一人がピアニストのジョルジュ・シェベックである。彼はサモシから最も大きな影響を与えられ,彼を尊敬していた一人である。その屋敷には優秀な科学者や,画家,作家が頻繁に出入りしていた。サモシ邸は音楽的にそして文化的に非常に豊かな環境だった。サモシ家はブダペストで第二次大戦を生き延びた。

 ラヨシュ・サモシはブダペストから戦後ブカレスト,ローマに移り,再びブダペストで研究と仕事をしていたが,1957 年に共産主義を逃れてウイーンへ移住し,その地でウイーン国立音楽大学の声楽科教授の職にあたった。

1979 年に彼は死去したが,現在は氏の子息であるエドウィン・サモシ Edvin Szamosi がその歌唱法の開発と発展をウイーンとニューヨークで引き継いで行っている。



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