サモシスクール(の理念)によれば、歌唱レッスンの目標は、才能の差こそあれ、各人の持って生まれた歌唱能力の開花を可能にすることであるべきである。サモシスクールは音楽の勉強だけでなく、硬直した筋肉をほぐし、実際に発声の基本である(吸気と呼気という2段階から成る)呼吸の呼気段階を行いやすくすることから始める。
先に述べたように、正しい呼吸法は教える(教わる)ことができない。生徒は発声の間、呼気と筋肉弛緩がしやすくなる練習が課せられる。これらの2つの要素が相互に高めあう。呼気法を改善し、呼吸抑制を減らせば、それが筋肉をほぐすことに役立ち、同時に筋肉をほぐすことが呼気の改善に役立つ。呼吸抑制を伴わない良い呼気法は、生理学的にも正しい、良い吸気法の唯一の前提条件である。
一度これらの練習がある一定の効果を上げれば、予期しない非常に興味深いことが起こり得る。例えば、以前より自由になった呼気法によって、形が定まらず、美的感覚がなく、制御されていないが以前より自由な音色が出るようになる。あるいは、その音色は思い通りの高さでは出ないかもしれない。あるいは叫び声や笑い声(ような音色)が突然出るかもしれない。奇妙に思えるかもしれないが、このようなことがすべて起こるのを認めることが大切である。これらの事が初めて起こると、生徒は驚いたり怖がったりしがちである。教師は、その生徒を安心させ、その事実を全て認め、受け入れることを奨励する。
教師はこうした出来事に陽気に反応することができるが、それは教師がその出来事がどこにつながる可能性があるかを経験で知っているからである。この肯定的な態度は生徒に伝わるはずであり、多くの場合その生徒は奇妙な出来事に対してユーモアを持って反応するであろう。このような「奇妙なこと」が頻繁に起これば起こるほど、生徒はその出来事がより大きな自由につながることに早く気付くであろう。
この過程で、耳で聞くことはできないもう一つの現象が起こる。時としてそれは、上述したことと同時に起こるが、別々に起こることもある。生徒だけが感じるのは次のようなことである。生徒は筋肉の中に追いやられ、そこに閉じ込められた感覚、痛みを伴う妙な感覚におそわれる。リラックスすることによって、それらの感覚が再び幅を利かせる。私たちはこれを、感覚はかつて神経組織内にある本来の場所から筋肉組織に移されたという私たちの主張の一種の証拠として受け入れることができる。これらの感覚はもはや現在のものではない。生徒はそれをもはや脅威としてではなく記憶として凝縮された形で経験する。ここでもまた、上述した制御されていない音の場合よりも難しいかもしれないが、私たちはユーモアを持って反応しようとすることはできる。教師はまた、勿論、喜んで明るく肯定的に反応すべきである。しかし、生徒はしだいにこれらの現象は、さらに軽くまた自由に歌う新しい可能性につながることに自分でも気付くであろう。
このような練習を通して生徒は呼吸を抑制する傾向に気付くようになり、そういうことが起こるのを防ぐことができる。
これが反射運動にならなければいけない。
抑圧された感情、気分、攻撃的な気持ちなどがこれらの練習を通して現れるという事実は、多くの人にこれは一種の心理療法であるという印象を与える。だがそれは誤解である!
これらの感情が現れ、こういうことがすべて起こるという事実はそれが心理療法であるという意味ではない。
私たちは歌唱指導する教師であり、心理療法士ではない。私たちは心理療法士の訓練を受けていない。もし私たちが心理療法を行おうとしたらそれは無責任であろう。
しかし、もし心理療法士なるために勉強していたら私たちはこれらの2つの仕事の仕方を混同しないように注意しなければいけないだろう。この混同は絶対に禁じられている。歌唱指導することと心理療法は2つは根本的に異なる分野である。両者はたとえ重なる部分があっても目標や達成方法が異なる。これらの2つの分野、歌唱法の研究と心理療法の代表が同一人物であれば、歌唱指導者と心理療法士、生徒と患者の間で、大混乱が起こるのは避けられないだろう。両方の関係者はどちらも、誰が何を代表し、誰がどんな役割を果たすのか分からないだろう。しかしながら、良い教授法は全て心理療法的効果を生じることもあることを知ることは重要である。簡単な例で言うと、教師が内気で神経質で動揺している生徒をなだめ、自信を持たせ、その生徒が自分の仕事をうまく、タイムリーにこなせるように励ますとき、この教師は自分が良い教師であるという事実に加え、それ自体自分の目標ではなかったけれども、心理療法的な効果を上げたのである。
教師、特に声楽指導の教師は、当然、心理学や心理療法、神経組織の生理学についての基本的なある概念を知っているべきである。このことは重要なことだが、それは歌うことはすぐその場で感情や情緒的、芸術的表現を扱わなければいけない活動だからである。
歌うことで大切なのは声ではない。大切なのは表現であり、音楽であり、形式である。声は表現の手段であり、二次的なものである。歌うことで大切なのは歌い手自身そのものであり、声ではない。ダンスもまた 大切なのは踊り手自身そのものであり、踊り手の手や脚などではないのである。(完)
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