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Satoshi Hasegawa

L.サモシの歌唱法と教授法4

更新日:2020年11月8日


3.Libero Canto の原理 

以下にサモシの Libero Canto の「原理」(Principle)全文を翻訳紹介する。

 「呼吸なしに声はなく,呼吸なしに歌唱はない。私たちの呼吸方法が歌唱方法を生じさせるのである。呼吸方法自体が完全に私たちの身体的,感情的な状態の現れである。それゆえ単に技術的な呼吸練習などはこの点で目的を達し得ない。私たちの呼吸と歌唱とは私たちの精神生活を,またそれを隠しているものを明らかにする。私たちが内面を隠し,その表現力をゆがめてしまう最も明白な身体的方法とは,緊張のパターンと呼吸をせき止めること,力づくの強制パターンである。息の抑止と,強制は身体と呼吸の自然な機能を邪魔する同じ網の2つの側である。私たちは自由に歌うために干渉をやめなければならない。

 どんなに本当の表現らしくみえても,歌うことは操作できないし,強制できないし,直接制御もできない。できることはそこに起こることだけである。音楽の,そして表現しようとする衝動の無制限な活動を許容することで,私たちは音楽と焦げ跡の中で,現実を明らかにする音楽制作の品質を得ることが出来る。故意に私たちの身体を操作しコントロールすることによって,ある種類の技術的能力を達成することは可能である。しかし,歌手が提供すべき音楽の贈り物はすべて,そのような支援でなく技術でなく届くものである。生理学の事実は器官,筋肉,および歌唱に含まれるプロセスが直接の意識的なコントロールにアクセス不可能である。直接または機械的な方法で筋肉を操ろうとするなら,私たちはせいぜいそれらのイミテーションに到達しうるだけである。他方では,私たちが歌唱の器官,筋肉およびプロセスが自然に機能するのを妨害しなければ,またそれらがするようにそれらが応えることを認めれば,それらはわたしたちが想像できるあらゆる音楽の,そして,表現の品質を作り出すために自分達の生得の能力を明らかにし始めることが出来るのだ。

 声はしばしば歌うことによって混乱する。そして歌手は声の音へののめりこみによって妨げられる。声は一方で身体の神経組織,筋肉組織に関わる表現であり,他方では力強く,表現力豊かな,美的な人間の行動がなしうる複雑なプロセスの最終的な結果として聞き取れる。

 声とは私たちが歌うという行為で息を吐いた結果動く空気の振動である。

 声自体は,器官や筋肉やプロセスや芸術形式などではない。

声のクオリテイーは発声前の 12 分の1秒で決定されるので,声を生み出す根底にある身体的感情的なプロセスにまで直接働きかけることは不可能である。 声楽の教師の仕事はこれら根底にあるプロセスを認めて,生徒が最も自由な可能性をもった手法でこれを展開するのを援助することである。このために,表面上の体裁よりもむしろその機能を聴くことを学ばねばならない。

歌唱の技法がどんなに洗練されあるいは巨匠的であったとしても,それは最も基本的な人間の表現から決して遠いものではない。歌うことは笑うこと,泣くこと,そっと歌うこと,大声をあげること等など,私たちが鋭敏で原始的なエネルギーでもってなされる人間の表現のすべてにわたっている。それが抵抗または歪曲なしで私たちの中を通わせ流れさせて,音楽形式の秩序の範囲内で達成されるとき,歌唱はその完全性に達するのである。これこそが私たちのいう自由な歌唱である」3)。

以上がサモシの Libero Canto の原理の骨子である。筆者の実体験をふまえ,次のような知見を加えたい。

(1) 歌うことは息を吐くこと。

 Singen ist ausatmen!  これはエドウインがレッスンのとき口癖のように生徒にいう言葉である。

人は声で歌うのではない。歌うと声が出るのであり,声は振動する空気である。その瞬間その瞬間に息が通って生まれ出るのが声である。従って一般によく言われるように「あの人は良い声を持っている」などということではない。ちなみにドイツ語にも Stimm-material(声素材)という言い方があるがこれも正しくない。声は息そのものであるが,種々の筋肉の使い方,鬱積,圧力によってその出てくる音色が変わってくる。顔面に響きを求めたり,腹壁を固めたり,背中で保ったり,等々のやり方はすべて正しいナチュラルな声の出方を阻害する。 これに対して正しい発声は,ただ息が吐かれる原動力である横隔膜と肋間筋と喉頭が働くだけである。他は要らず,また使ってはならない。

(2) 訓練の必要性について。                                                      

声楽を志す者には生まれつき良い発声機能が備わっていて,周りの環境が良ければ苦労せずに良い歌を歌っていくことのできる者もいる。しかし,そうした人たちでも一度何かうまく行かないことがあるとなかなか回復できず,そのまま演奏生活が終わると言うことが少なくない。筆者は 1972年以来ウイーンの国立オペラを 500 回以上見聞きしているが,イタリア系の歌手ではよくそういうことがある。天真爛漫,天衣無縫の状態で歌えている時が華であり,それはそれで尊いが,よほど自然の理にかなった発声をしていなければ長年歌い続けることはできない。そのためには絵を描くこと,楽器の演奏などと同様に,歌唱にも正しく厳しい訓練が不可欠である。昔の名歌手は幼少の時から9年から 10 年は良師のもとで絶え間なく訓練を続けた後にキャリアを歩み始めていたし,その後も指揮者やピアニストの助言を受けつつ声楽教師とともに大成を目指したのである 4)。

サモシによれば,すべての人間には同じように発声器官が備わっていて,健康状態であれば人種や男女の区別なく同様に良い声を出せるという。従ってイタリア人でなくても音楽的才能さえあれば訓練を受けて世界レヴェルの歌い手になれるはずであるという信念のもとにこのメトードが開発されたのである。

(3) 軽く明るく,透明に歌うべきこと

軽く明るく歌っていけば Obere Mekanik(上方のメカ)を得られる。

著者はかつて Bel Canto 歌唱法の特色の一つとしてこのメカニズムについて言及した 5)

。これは声帯の縁辺筋のみを使うメカニズムである。(この名称を筆者は従来 High-Mechanism としていたが,現在アメリカでは Upper-Mechanism と呼称している。) 歌手が声をどんどん軽く明るくしていくとブレイクが来る。このときに現れるこの機能が発声に繊細で顕著な働きをもたらすのである。これは一般にはファルセットの機能ともいうが,身体が緩んでいる状態になれば立派な実声である。声の反転は身体の硬さ,発音の硬さによることが多い。硬さがそれをさせているだけであって,裏返った後は身体も声も自由になっている。

 またブレイクは多くの歌手に来るのだが,これを不安に思うために,声をかぶせたり,喉を開いたり,支えたりという悪い方向へいくことが多い。しっかり歌おうとすると視線が落ち身体を固定させようとする動きが出てしまう。強弱,高低,クレッシェンド,デクレッシェンドいずれを歌う場合でもまた変化させる場合でも機能は同一に小さく,軽く,ファインなものでなければならない。呼吸の量が変わるだけである。歌唱は常に最低最小の喉頭の働きにこそ美しいものが現れる。澄んだクリアな母音は軽い働きでしか生まれない。また透明な歌い方は正しい発声に不可欠の条件である。サモシの発声で歌われる声はフォルテ(強声)であっても決してうるさくは響かず,ピアノ(弱声)で歌っていても隣室にも通ってくる。また,普通の歌唱においては声の出所がすぐにわかるが,この歌唱法での音声はそうではなく,あらゆる方向へ透っていく。

(4) 表現について

歌唱表現については一切の人工的なものが排除される。練習のとき,あるいはステージ上においてさえも,中立で無関心な状態が求められる。意図的な要素はすべて身体の硬直に結びつくからである。

 発音において各母音は直前の母音と口形を変化させずにつなげて発音されるのが正しい。

これらは一般的な常識とは正反対の考え方である。歌い手の内側からのものを露出するにはその出口のところで手を加えるべきではない。フリッツ・ヴンダーリッヒ(1930-1966)はその早逝が欧州の声楽愛好者の間では未だに惜しまれていて筆者も敬愛するドイツの名テノールであるが,彼の演奏は例外なく簡潔でその温かい人間性が伝わってくる。「母音の口形の変化はレガートを損なう」,かつてヴンダーリッヒがドイツのラジオ放送のインタヴューで語っていたのを筆者は聞いたことがある。そこでの彼は「自分の理想はベニアミーノ・ジーリだ。」とイタリアのベル・カント歌手を挙げていた。さてデイートリッヒ・フィッシャー・デースカウは有名なドイツのバリトンであり,その膨大なレコーデイングの量には驚かされるが,彼の演奏は簡潔とは言い難くむしろ人工的な表現である。彼の音楽を好む人たちも大勢いる。どのような演奏を好むかは受け取り側の生き方に関わることであろうと思われる。




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