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Satoshi Hasegawa

自然でより良い歌唱のために2

更新日:2020年11月8日

○ 指導について

・音楽の授業やレッスンは常に落ち着いた雰囲気の中でやること。

    音楽を表現するということは感情的なものがすぐに入って来る。これをそのままにすると前に進めない。選別ができなくなり,よいものだけを育てるということができなくなる。質的向上を図るためには努めて冷静に、落ち着いた雰囲気の中で進められるべきである。                                                                                       


 ・厳しい練習の雰囲気は児童・生徒の身体を硬くさせてしまって前進することができない。全体伸び伸びと、間違っても大丈夫といった感じでトレーニングが続けられると良い。                             

・教師は大声で立派に模範唱をしない。

 児童・生徒はその大声だけを真似するものだからである。教師はそこで必要とされることの模範唱を端的に示すべきである。

 ・練習では中声域から高声域へクロマティック(半音づつ)に上げて行く。高声域から中声域低声域に下げてくる。この時上行はどんどん軽く明るく、下降は高声の軽さ明るさをもったまま。上胸部に力みが入る場合は先に低声部からやってもよい。

○集団指導と個人指導

集団では各人が多様な声を出すので、その指導の助言が全体に適切かどうか、常に配慮する必要がある。基本的にはいつも個別の指導が軸になるべきことに注意する。望ましいのはマンツーマンで一人一人、一声一声良い悪いを選別しながら行なわれるべきで、良いものだけを覚えていくことが肝要。

○子どもへの指導と大人への指導

健康な器官を持っているならば歌唱の指導には人種、性別、年齢にとりわけ差は無い。しかし変声期にさしかかっている生徒には要注意。主要な発声器官である喉頭部が急激な成長によってアンバランスな状態である。女性の生理時には無理をしない。風邪を引いたときは声帯も風邪を引いていて、充血しているのでできるだけ歌わない。

しかしLibero Cantoでは声帯への負担が少ないので多少の風邪引き状態でも通常どおり歌えることが多い。

○呼吸と姿勢について

成人においては4L前後の肺活量があり、そのうち通常は0,5Lを出し入れしている。大きく吸わなくても2L前後は肺の中に入っている。歌唱に必要なのはこの、「rest Atem」 残された息であり、直前に吸い込む生の息ではない。この残された息をトレーニングするのである。吐かれた後に息は自然に入ってくる。従ってイタリアのマエストロたちが述べているように伝統的な発声法には呼吸法なるものはない。楽に少しだけ吸って呼気の方に気持ちを集中する。ただ吸気では音が出ないように注意する。吸気の際に音が出てくるのはどこか不要な部分が触っているせいである。  姿勢については落ち着けるように、上体に力が入らぬように腰掛けて練習するのが効果的である。立った時は両足で踏ん張らずに片足に重心がかかり、もう片方をそれに添える程度にする程度が良い。また練習では歩きながら歌うのもリラックスできて良い方法である。

○音楽の実現

歌う直前の構えと支え、お腹に力を入れることなど作為的なことはすべて自由な歌唱を阻害する。そうするのではなくて、歌い手が今歌おうとする音楽を頭に描けば、必要な息が自然に用意され、旋律に従って音楽が実 現していくと考える。

何か殊更に作為をもって音楽を作るということではない。正しい発声で真っ直ぐに旋律を歌って行けば、そのことだけで音楽は出てくるものである。

○喉を開けるということの意味

身体を硬直させて歌っていくと高音は常に困難に直面する。そして声楽教師たちは喉を開けるように指導する ことになる。口を開け、喉を開けようとすると、かえって息が止まり正しい喉頭の働きから遠ざかってしまうことが多い。逆に口を閉じて喉を開けないようにて、顎や舌の力を取り除けばうまく行く場合がある。喉が開いた感じ、というのは「器官が緩んでリラックスして息が通りやすい状態」というように理解した方は良いと思われる。

○発音について

明瞭な発音と大きな口開けが、本当によい発声であるかというと実は正反対になることが多い。 はっきり発音するとそのことで口と喉に引きつった状態がおきてしまう。発音を強調したり、母音を口の形で変 化させたりすると大切な声のレガートを損なってしまう。発音は流れ出るレガートを邪魔しないで柔らかく行われるべき。口の形は主体的に動くのではなく、第二義的に動くというのが正しい。

それぞれの母音の発音は口形で変えてはならない。かえって同じ口形で母音を変化させていく方が正しい。また「i」 や「u」の母音が閉まる母音だからといって高音で喉を開かないこと

○本当の自分の歌唱状態を知るには

自分が今出している声というのは、自分には正確に聴こえない。このことは録音した自分の声を聴いてみるとよく分かるはずである。自分の声を聴きながら歌うと、身体の動きが止まり、歌唱全体にブレーキがかかってしまう。これはやってはいけないことである。客観的に自分の声を知るためには性能の良い録音機器や鏡によるチェックが必要になる。

なお。合唱において「他の声部をよく聞いて歌うように」指導しがちであるが、これも自分の歌唱にブレーキをかけることになるので「他の声部を感じて」などと言い換えた方が良いように思われる。

○共鳴について

多くの声楽学習者が誤解していることであるが、共鳴する場所を狙って当てるとか、響きを集めるようにする、とかということはすべて間違い。共鳴するということは、正しく発声した時の結果であり、結果的にそこが響いているように聞こえるのである。鼻や眼や額などを狙って歌うとかえって発声が大変いびつなものになってしまい、決してうまくいかないものである。

正しい発声に必要なものは、横隔膜と声帯のみ。他の筋肉は休んでいるべきである。身体全体で歌うというようなことはない。他の筋肉が緩んでいれば身体は筒のようになり、共鳴は拡がるのである

○声楽用語について

 声楽用語には頭声、胸声、地声、裏声、表声、ファルセット、ブレイク、デックング、換声点とか様々なものがある。これらの名称と意図などは説明する各人によってバラバラで昔から統一されてなどいない。

 また発声に医学用語を持ち込んだり、声帯や喉頭部の働きに言及したりするところで、その動かし方などはどうにもなるものではない。

20世紀前半まで生きていたイタリアの名マエストロ達は皆解剖学的や音響学的なアプローチは決してしていなかった。

筆者の経験では前述の声楽用語は歌い手のイメージを固定化させる悪影響がある。それよりも、筋肉の緊張を取り除いて軽く明るいメカニズムの訓練によってこそ、自由で正しい歌唱が実現できる。

○好きな声、良い声、正しい声

何がよい声か、というと、一般に人は自分の好きな声をよしとしたりすることが多い。だが声楽を研究する者にとっては、各人の好みによって声を峻別したりするのは恣意的に過ぎるし、それは趣味の段階というべきであろう。筆者は声楽関係者が普遍的に良い声を表すのには「正しい声」という言い方が良いのではないかと思う。それはその声が生理的に正しく機能している状態で、聴いていて素直に身体に入ってくる声というのが本当に良い声で、正しい声ではないだろうか。

○歌唱表現について

オペラにおいてはストーリーの配役に従って、その人物の声の役割にそれぞれ違うものが要求されるが、そのオペラや声楽曲の大部分は愛の歌、恋の歌、憧れの歌等など、柔らかく暖かく歌われるべき曲たちである。


愛の二重唱が硬直した身体からふりしぼられる硬い声で歌われては興ざめなばかりか、間違った演奏である。現代のクラシック歌手達は子守歌を優しく歌うことができるだろうか?


20世紀初頭のヨーロッパは声楽の黄金時代と呼ばれ、数多くの名歌手が活躍した時代であった。最近はそうした歌手のCD復刻盤が出版されている。また、有難いことにPCのYouTubeでも簡単に彼らの演奏を聴くことができる。

多少のノイズは全く気にならないほどその演奏は自由で、優しく、暖かく、クオリテイが高い。我が国の戦前の歌手達も同様である。


ラジオの時代からヴィジュアルの時代に変わって久しく、人々の興味が多方面に分散したり、伝統的な発声法を伝えるマエストロが欠乏したりしたこともあり、声楽の水準が落ちてきている。と欧米でもささやかれてすでに半世紀以上も経っている。

○学校における声楽教育のために

全国規模の合唱コンクールの演奏を聴くと、高校生は大人の、中学生は高校生の、小学生は中学校の、というようにそれぞれが徐々に年上のクラスの演奏に似せて、暗く、重く、難しい表現を狙っているように聴こえることがある。

そういう時には、自分たちのいま出来得る声で、明るく生き生きと歌ってくれればもっともっと素晴らしいのにと度々思うのである。明るく、軽く、快活に歌っていくことは知性や教養がないように指導者は思うのだろうか?


反対に、暗い声や重い声の表現が本当に立派なことであろうか? 勿論、詩の内容と音楽に従ってそういう表現をすべきところもあるだろうが、大人の合唱でもソプラノからバスまで明るく、軽い発声でないと倍音は得られず、真のレガートは生まれずに表現の自由が狭められてしまう。

○おわりに

アメリカのベル・カント声楽指導者C・リード氏は現代の歌手の低水準について、最大の原因はお腹の支えSu pportと高音でのデックングCoveringであると述べている。

お腹や背中で支えて固めたり、高音域を暗くして歌ったりすることは身体の開放にならず、聴き手の共感にはつながらない。

反対に、歌うときに構えないで(準備はするが)、明るく、軽い発声をしていくと 身体が自由になる。そして声は自由になっていくことができる。そうすると歌い手は演奏表現が自在となり、聴く人にはその声と音楽によって感動が呼び起こされるのである。

 以上、声楽に関して、学校教育におけるものから専門的なものにも踏み込んで述べてきたが、これは歌唱というものが子どもと大人の区別なく同じ真理から来ていると信じられるからである。

子どもの時に歌がよく歌えなかったために音楽が嫌いになっていく人が無数にいるのではないか、また音楽的に有能で将来を持った子どもたちが、指導者による誤った指導のためにその道を困難なものにされてしまったことを見聞するにつけ、小学校時から良い歌唱法を身につけることの重要性を、教職にある先生方に是非知って頂きたいと思うものである。

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